その他

other

秀吉・秀長兄弟
ゆかりの地/武将

よく知られた名所の他にも残る秀吉・秀長兄弟の足跡。
それらゆかりの地や伝統工芸、関わりある武将たちを紹介します。

武将たち

美濃攻め

永禄四年(1561)、信長は義龍の急死をきっかけに美濃攻めを本格化させる。斎藤軍が手ごわく攻めあぐねたものの、信長は居城を小牧山城に移し、ここを拠点に犬山城、木曽川対岸の鵜沼城、猿啄城を次々と攻略。さらには加治田城の佐藤氏の内通を誘った。義龍の跡を継いだ龍興は人望がなく、信長の調略を受けた家臣団や国衆は次々と離反していった。永禄十年(1567)、美濃三人衆の内通を受け、信長は斎藤家居城の稲葉山城(岐阜城)を包囲。龍興は逃亡し、信長は城と美濃を手に入れた。

加治田城跡、堂洞城跡(富加町)

猿ばみ城落城前後、織田方へついた加治田城。至近距離に堂洞城を斎藤方に築ずかれるなど包囲されるも信長の援軍により勝利した。信長は城下の屋敷に一泊し、翌日には城下で首実検を行ったとされる。

加治田城と堂洞城(富加町公式ページ)

本能寺の変~賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦いは、本能寺の変後、織田信長の亡きあとの家督をめぐって、秀吉と柴田勝家が激突し、秀吉が勝利した戦い。

苗木城(中津川市)

1526年、遠山氏によって築城。本能寺の変の後、秀吉の指示で東濃を支配することになった森長可に攻められ、遠山友忠・友政父子は城を追われた。その後、徳川家康に仕えるようになった友政は、関ケ原の戦いに先立って苗木城の奪還に成功。以降、明治維新に至るまで苗木領を治めた。

岐阜の旅ガイド紹介ページ

大垣城(大垣市)

賤ヶ岳の戦いの際の、秀吉による”美濃大返し”の起点のなった地

大垣城

郡上八幡城(郡上市)

本能寺の変以降、当時の城主である遠藤慶隆は織田信孝(信長の三男)に与して秀吉と対立したため、秀吉政権は郡上八幡城を没収するなどした。その後、稲葉貞通(一鉄の嫡男)が城主となって城郭の整備など行い、「豊臣」姓が下賜された。

岐阜の旅ガイド紹介ページ

小牧・長久手の戦い

信長後継の地位をめぐって、秀吉と対立した信雄(信長の次男)が、秀吉の三河進入を食い止めたい家康と組んで始まったの戦い。秀吉と信雄で和睦が成立したことで終結した。

前渡不動山(各務原市)

天正十二年(1584)9月17日、小牧・長久手の戦いの最中、秀吉がこの地に布陣した。前渡不動山からは濃尾平野を一望でき、木曽川の渡河地点でもある前渡は、秀吉が布陣するのに最適な地だったと想像できる。

竹ヶ鼻城跡(羽島市)

小牧・長久手の戦いの際に秀吉が水攻めにしたと知られる城。秀吉の生涯4度の水攻めの一つと言われている。また周辺には、見張り場として砦を築いた太閤山と呼ばれる小丘や、竹ヶ鼻城を取り囲むために5~6日で完成させた一夜堤など関連史跡が残る。

岐阜の旅ガイド紹介ページ

駒野城跡(海津市)

土岐氏・斎藤氏を経て信長に仕えた高木氏の居城。小牧・長久手の戦いでは信雄に従って秀吉軍に抗戦した。

岐阜の旅ガイド紹介ページ

美濃伝(関の刃物)

美濃伝(関の刃物)

美濃伝は日本刀の五大産地「五箇伝」のひとつに数えられる。「折れず、曲がらず、よく切れる」ことから戦国でもっとも使用された刀ともいわれ、秀吉ら多くの戦国武将に愛された。孫六兼元(関の孫六)が活躍したのもこの頃。

関市

岐阜の旅ガイド紹介ページ

美濃焼

美濃焼

織田信長は美濃への陶工の移動を推奨し、焼き物の一大産地へと育て上げた。黄瀬戸、瀬戸黒、志野といった代表的な美濃焼が生まれ、戦国武将たちから愛された。茶人武将・古田織部が好んだことから名づけられた織部もそのひとつ。

多治見市、土岐市、
瑞浪市、可児市

岐阜の旅ガイド紹介ページ

美濃和紙

美濃和紙

美濃和紙は正倉院に残る大宝2年の戸籍断簡が現存最古のものであり、1300年の伝統と歴史を誇る。美濃和紙の評判は極めて高く、美濃国守護の土岐氏や金森長近に保護奨励された。徳川家康が関ケ原合戦で振ったといわれた采配にも美濃和紙が使われており、勝利の縁起物として幕府の御用紙となったといわれる。

美濃市

岐阜の旅ガイド紹介ページ

逸話

勝地峠(大垣市)

かつて、伊勢街道最大の難所で、荷物を運ぶ馬を使用することが出来ず、人が背負って運んだため「歩路(かちじ)」と呼ばれていた。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いを前に、秀吉が滝川一益への北勢攻めを行った際にここを使い、勝利したことに由来して「歩路」を「勝地」に変えたという逸話が残る。

岐阜の旅ガイド紹介ページ

仏眼院(各務原市)

前渡不動山に所在する真言宗の寺院。もともと京都の醍醐寺の塔頭であった仏眼院は、明治30年にこの地に移転してきた。京都にあった頃、秀吉が晩年開催した「醍醐の花見」の折、秀吉が花見当日の晴天を祈願したと伝わる。「豊太閤祈願院」の記された石碑が、前渡不動山の登り口に建てられている。

竹中半兵衛

秀吉を天下人にした名軍師

本名・竹中重治。岐阜県垂井町岩手に居城した人物で、美濃の国主・斎藤氏に仕えたのち、豊臣秀吉から三顧の礼をもって参謀に迎えられた。稲葉山城(岐阜城)をわずかな手勢で一時占拠するほどの知将でありつつ、民衆思いの武将としても知られている。城攻めの際は調略に力を入れ、戦わずして勝つことを第一とした。

大御堂城跡(大野町)

天文13年(1544)に半兵衛が生誕した地であり、14才で菩提山に居を移すまでこの地で学問を修め、兵法を学んだ。現在は大御堂城跡地に生誕の地として石碑を構え、毎年、竹中半兵衛顕彰会により生誕記念祭が行われている。

竹中半兵衛ゆかりの地

美濃三人衆

斎藤家に仕えた実力者

斎藤家を支えた重臣・安藤守就、稲葉良通(一鉄)、氏家直元(卜全)の三人の総称。かつては守護土岐氏に仕えたがその勢力が衰えると、斎藤道三・義龍・龍興の三代に仕える。その後、三人衆は、龍興の器量を見限って、織田方に寝返り、稲葉山城攻略に貢献した。

安藤守就戦死の地(北方町)

安藤守就は信長の死後、旧領地を取り戻すために挙兵して北方城を奪い、再起を試みたが、新領主の西美濃三人衆のもう一人、稲葉良通(一鉄)に攻められ討死した。

岐阜の旅ガイド紹介ページ
  • 曽根城跡(大垣市)

    稲葉一鉄の居城跡。小牧・長久手の戦いの間、秀吉は、城主・稲葉一鉄が尾張に在陣して、留守となっていた曽根城に到着し、2日間在城した。前線の戦況報告を聞くため、蜂須賀正勝など4名の武将に対して曽根城に来るよう書状を送り、指示している。戦況報告を受けた秀吉は、その後、大阪城へ帰城した。

    岐阜の旅ガイド紹介ページ
  • 卜全塚(氏家ト全の墓)(海津市)

    信長の伊勢長島攻めに柴田勝家軍として従軍したが、織田軍は敗走となり、殿を務めた氏家直元(卜全)は討死したとされる。

    岐阜の旅ガイド紹介ページ

明智光秀

明智光秀

才能と特を備えた麒麟児

生まれた土地はいくつか説があり、前半生は謎多き人物。斎藤道三に仕えたのち、足利義昭や織田信長に仕える。文武両道で活躍し、信長のもと、豊臣秀吉とともに異例の出世を果たした。のちに本能寺の変で信長を討つが、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れる。

明智城跡(可児市)

光秀が生まれた城として知られており(諸説あり)、11歳で城主となり、斎藤義龍に攻められ落城するまでの30年近くを過ごしたとされる。

岐阜の旅ガイド紹介ページ

妻木城及び土岐高山城(土岐市)

光秀の正室・煕子は妻木氏の出身。
妻木城主の頼忠は小牧・長久手の戦いの際、豊臣側についたが関ヶ原の戦いでは徳川側についた。一方、高山城主は関ヶ原の戦いで豊臣側についたが敵の攻勢に耐え切れず退却、戦後は妻木氏が領有することとなった。

妻木城跡 岐阜の旅ガイド紹介ページ 土岐高山城跡 岐阜の旅ガイド紹介ページ

土岐高山城戦国武将隊(土岐市)

秀吉の宿敵である明智光秀に扮した武将が所属する。土岐市の地域活性化、高山城高山宿にまつわる歴史を後世に伝えていくことを目的に結成されたボランティア隊。市内外のイベント行事に出陣し演舞や勝ち鬨などをもって盛り上げる。

土岐市観光協会 紹介ページ

斎藤道三・義龍・龍興

戦国の梟雄とその子ら

道三は「美濃の蝮」と恐れられ、父と二代で美濃の国盗りを果たした。仇敵であった織田信秀(信長の父)と和睦し、娘の濃姫を信長に嫁がせたものの、家督を譲った嫡男の義龍と対立し、長良川の戦いで敗死。その後、義龍が病死し、龍興が美濃国を継ぐ。

金森長近

高山の礎を築いたまちづくりの名人

大永4年(1524年)美濃国土岐郡多治見郷大畑村(現:多治見市大畑町)生まれ。信長の馬廻り衆のひとり。賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家に従い、秀吉と戦うが降伏。1585年、三木氏討伐のため飛騨に侵攻。翌年、飛騨国を拝領した。街道整備、山林・鉱山開発などを推進し、産業の進行を図った。秀吉死後は家康に従い、関ケ原の戦いでは東軍に参加。

小倉山城、うだつの上がる町並み(美濃市)

長近が築城した城とその城下町で、400余年を経た現代も「うだつの上がる町並み」としてそのままの姿で残っている。

うだつの上がる町並み 岐阜の旅ガイド紹介ページ 小倉山城 岐阜の旅ガイド紹介ページ

高山城跡(高山市)

長近が築城した城で、天正16年(1588年)から始まり、慶長8年(1603年)までの16年間をかけて、飛騨匠たちが建てました。「城郭の構え、およそ日本国中に5つともこれ無き見事なるよき城地」と記されるほどの名城。

岐阜の旅ガイド紹介ページ

松倉城(高山市)

天正13年(1585)に豊臣秀吉の命を受けた金森長近の侵攻により落城した三木氏の城。飛騨地方では数少ない高い石垣のある城として知られ、令和7年に国指定史跡に認定

岐阜の旅ガイド紹介ページ

東山寺院群(高山市)

金森氏は、城下町を整備する中で、城下町の東に連なる山裾に数々の神社仏閣を建立又は移築した。これらは現在も東山寺院群として残されている。

飛騨高山旅ガイド紹介ページ

古川城跡(飛騨市)

長近が飛騨に侵攻して三木氏を滅ぼしてから拠点とした城。

岐阜の旅ガイド紹介ページ

古田織部

三英傑に仕えた茶人武将

美濃国山口(岐阜県本巣市)生まれ。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、茶の湯を千利休から継承し発展させ、武家好みの大胆かつ自由な茶の湯と織部焼を生み出し、天下一茶人と称された。

織部展示館(本巣市)

道の駅「織部の里もとす」内にある古田織部を紹介する展示館。織部の生涯や織部流茶道について、様々な視点から学ぶことができる。

岐阜の旅ガイド紹介ページ

織部の里公園(土岐市)

古田織部が織部焼をはじめ美濃焼に大きな影響を与えたゆかりの地。

岐阜の旅ガイド紹介ページ

織部焼

織部焼の名称は古田織部の名前に由来しており、古田織部の好みを反映したやきものとして後世の茶人により名付けられたと言われている。

岐阜の旅ガイド紹介ページ

森長可・蘭丸

森長可・蘭丸

「勇将・鬼武蔵」と「信長が寵愛した小姓」兄弟

美濃金山城(岐阜県可児市)の城主だった森可成の次男・長可と三男・蘭丸は、兄弟揃って織田信長に仕えた。蘭丸は、織田信長の小姓として側で仕え、本能寺の変にて信長と運命を共にした。長可は、豊臣秀吉と徳川家康が戦う小牧・長久手の戦いの際、勇将として活躍したが、長久手の戦いにて戦死。

美濃金山城跡(可児市)

可成が信長から城を賜り城主となり、およそ35年にわたり森氏の居城となった。約400年前の石垣が残る国史跡で、山頂からの眺望も圧巻。

岐阜の旅ガイド紹介ページ

可児市の山城
(久々利城跡、今城跡、大森城跡)

長可は小牧・長久手の戦いの戦火が美濃方面にも及ぶと考え、手中にあった城を改修したとされている。

今城跡 岐阜の旅ガイド紹介ページ 久々利城跡 岐阜の旅ガイド紹介ページ 大森城跡 可児市公式サイト紹介ページ

池田恒興

清須会議四宿老の一人

織田信長の乳兄弟。信長死後、秀吉に仕え「小牧・長久手の戦い」で子の元助と共に戦死。また、恒興の次男の輝政は父亡き後、秀吉に仕え、関ケ原の戦い後は姫路城主となったことでも知られている。

池田恒興・元助父子の墓(池田町)

池田氏の祖先が開祖と伝えられる龍徳寺の西に建てられらた恒興・元助父子の墓所。

岐阜の旅ガイド紹介ページ

濃姫

濃姫

謎多き、信長の正室

信長の正室とされる濃姫は、可児明智城主(現在の可児市)明智三継の娘・小見の方(おみのかた・道三の正室)と斎藤道三との間に生まれた。濃姫が信長と結婚後、どのような生活を送ったかは、資料が少ないためほとんどわかっていない。

濃姫遺髪塚(岐阜市)

本能寺の変で信長と共に亡くなった濃姫の遺髪が、逃げ延びた家臣によって埋葬されたと伝えられている。

岐阜の旅ガイド紹介ページ

アクセス
マップ

access

秀吉と秀長ゆかりの地へ、
ぜひこちらのアクセスマップをご利用のうえお出かけください。

気をつけて来るのじゃぞ!